50歳からのアニメ

国際化したアニメを昭和世代から再評価してみます。

アニメとの出会いと別れ

 子供の頃の記憶ははっきりしない。特に小学校3年生以前の記憶はほとんど無いと言っていい。
小学3年生以前で残っている記憶では、

  • 八幡西区の国道3号線沿いにある「S元市場」で母が衣料品店を営んでいたこと。
  • 下戸だがヘビースモーカーで競艇選手だった親父によく殴られていたこと。
  • なぜか、死後の世界を信じられず、「死んだ後にどうなるのか」と怖くて布団の中でよく涙を流したこと。
  • 貧乏長屋に住んでいたが、長屋で最初に車やテレビを手に入れた(確か競艇の優勝賞品だったと思う)ので、近所の人たちがテレビを見に良く家へ来ていたこと。
  • 運動が苦手で、頭も悪く、風呂嫌いで不衛生だったことから、H原小学校やA生中学一年までは良くいじめられていたこと。
  • 小学4年の時まで、近所の上級生が唯一の友達だったが、たまに家に上がり込んで母の財布からお金をくすねるようなやつだったこと。

 だからテレビで、「謎の円盤UFO」といった洋ものSF、「サンダーバード」「ひょっこりひょうたん島」といった人形劇もの、「宇宙少年ソラン」「おばけのQ太郎」など白黒のアニメは随分とみた記憶があるし、内容は今でもおぼろげながらも覚えている。
 今では「中2病」とでもいうのだろうか。当時は、現実から空想の世界へと随分と逃避していたような気がするが、テレビの見過ぎで近視になり小学4年でめがねをかけ、成績も悪かった私に親父が出した命令は、「一週間に一番組だけ好きな番組を見て良い。」「テストで100点(満点)が一科目もなければテレビは見せない。」だった。
 まぁ、当時の小学校のテストで100点以外というのは、クラスに数人しかいない、かなり集中力に欠けている子供だけだったと思う。

 転機は中学一年のとき、親父が肺がんで余命数ヶ月と診断されたことだ。嫌でも現実世界へと引き戻されることになった。
 親父は、もともと炭鉱技師として働いていたが、浪費癖のあった祖母の負債を返済するため競艇の選手となった。
 景気が上向くにつれ、米俵とかの現物支給がメインだった優勝賞品が賞金へと変わっていき、貯蓄ができはじめた矢先のできごと。
 親父は現在実家があるこの土地に家を建てたが、新築の家に住んだのは、死ぬ直前のわずか一週間たらずの期間であった。
 度重なるガンの摘出手術、抗がん剤の影響、あちこちに転移したガン。骨と皮だけになったが、トイレにひとりでいこうとして倒れる父親。
 そこには、私を頻繁に殴り倒していた頃の父の面影は全くなかった。
 新築の家に移るため中学1年の終わりに引っ越した。そして、私が中学2年となった4月の14日。父は他界した。
 親父が亡くなった後では、ハードな競艇選手生活の合間、家族連れでキャンプに行ったこと。たまの休暇になると学校を休ませて私を釣りにつれていったこと。
 決して好きな父親で無かったはずなのだが、不思議なもので良かった思い出しか浮かんでこなかった。
 「心に大きな穴が空く。」というのを生まれて初めて体験した。そして、感動や悲しみで涙を流せない体質になってしまった。妻と出会うまでは。

 引っ越し先が新興団地だったせいか、転校生が多く、近所に友人がたくさんできた。
 東京から引っ越してきた友人に、めちゃくちゃ頭の良いのがいて、片道30分かかる登下校の最中に、勉強とは「丸暗記」でなく「考えること」であると教えてもらった。
 500人近い学年で下から数えた方が早かった成績も二桁順位くらいまでは行くようになった。
 中学を出て就職を希望していたが、理数英が得意だった私を不憫に思ったのか、担任の先生の薦めで北九州市の奨学金を受けることにし、宇部工業高等専門学校工業化学科を受験することになった。
 気の小さな私は合格発表があるまで、青白い顔をしていて担任の先生や友人を随分と心配させたが、なんとか合格でき、当時、全寮制であり、 「早朝訓練」という軍隊みたいな名目学生自治の学校へ進学することとなった。
 そして卒業するまでの5年間、テレビとは全く無縁の生活を送ることになり、次にアニメと再会するのは就職して1年以上経ってからのことになる。